1920年 |
KJ法創始者・川喜田二郎、三重県に生まれる。 |
1943年 |
川喜田二郎、京都大学文学部史学科地理学専攻を卒業する。 |
1951年 |
川喜田二郎、奈良県都介野(つげの)村(現天理市内)の村誌作成調査において、データのまとめのために図書カード(の裏)を使い、KJ法の最初のヒントを得る。その方法をその後「紙切れ法」と呼ぶ。 |
1953年 |
川喜田二郎、日本マナスル登山隊学術調査で初めてネパールを調査し、KJ法の原型を実施する。 |
1957年 |
川喜田二郎著『ネパール王国探検記』(光文社・カッパブックス)が刊行される。 |
1958年 |
西北ネパール学術探検(隊長:川喜田二郎)において「フィールドノート」→「データカード」の共同作業を実施する。データカードの下欄に作製者のイニシャルとして「KJ」と記載する。 |
1960年 |
川喜田二郎著『鳥葬の国』(光文社・カッパブックス)が刊行される。 |
1962年 |
川喜田二郎、思想の科学研究会で「紙切れ法」に関するアイデアを発表する。その発表内容は『思想の科学』8月号に「衆知を集める法」として掲載される。 |
1963年 |
第3次東南アジア稲作民族文化総合調査(団長:川喜田二郎)が実施される。 |
1964年 |
その調査報告のまとめにおいて、川喜田二郎は、杉山晃一氏(現東北大学名誉教授)にKJ法の原型を教える。
「日本ネパール協会」が設立され、川喜田二郎は専務理事に就任する。
川喜田二郎著『パーティー学』(社会思想社・教養文庫)が刊行される。企業界から特に注目を集める。
京都大学の人類学同好者の会合において「紙切れ法」について発表する。その折に配布したがり版刷り資料の隅に小さく「KJ」と記す。参加者の一人の梅棹忠夫氏(現国立民族学博物館顧問)が「紙切れ法」という名称を改めよと指摘し、「KJ法」という名を示唆する。 |
1965年 |
『独創』第8号「KJ法特集号」(日本独創性協会)に、印刷物として最初に「KJ法」の名が現れる。「KJ法」の名称が正式にきまる。 |
1966年 |
川喜田二郎著『チームワーク』(光文社・カッパブックス)が刊行される。 |
1967年 |
KJ法研修体系の粗筋が川喜田二郎により完成し、本格的な普及が始まる。川喜田二郎はKJ法指導のために企業各社に招かれる。川喜田二郎を中心とした研修の努力で、「KJ法」の名称は急速に全国に普及・定着していく。
川喜田二郎著『可能性の探検』(講談社・現代新書)が刊行される。
川喜田二郎著『発想法』(中央公論社・中公新書)が刊行される。 |
1968年 |
川喜田二郎、国際人類学民族学会議で「KJ法」について発表する。
日本の大学紛争が本格化する。 |
1969年 |
東京工業大学に「参画会」(参画社会を実現する会)が結成される。
川喜田二郎、東京工業大学教授を辞任し(辞表が受理されたのは1970年3月)、「移動大学」代表に就任する。
第1回移動大学「黒姫移動大学」(長野県黒姫高原)が開催される。
移動大学のために、「KJラベル」を設計する。 |
1970年 |
第2回移動大学「琵琶湖移動大学」(滋賀県三上山麓)が開催される。
第3回移動大学「えびの移動大学」(宮崎県えびの高原)が開催される。
第4回移動大学「新潟移動大学」(新潟県角田浜海岸)が開催される。
第5回移動大学「愛知移動大学」(愛知県伊良湖岬)が開催される。
「川喜田研究所」が創設される。
川喜田二郎著『続・発想法』(中央公論社・中公新書)が刊行される。
川喜田二郎・牧島信一編『問題解決学ワークブック』(講談社)が刊行される。
川喜田研究所主催第1回「KJ法基礎実技研修会」が開催される。 |
1971年 |
第6回移動大学「沖縄移動大学」(沖縄県伊武部ビーチ)が開催される。
第7回移動大学「湖北移動大学」(滋賀県湖北)が開催される。
第8回移動大学「十勝移動大学」(北海道十勝平野)が開催される。
第9回移動大学「四国移動大学」(愛媛県城辺町)が開催される。
番号外の「三河移動大学」が開催される。
山梨県での「桃ノ木移動大学」がこの年と翌年に開催される。ソニー学園に川喜田らが指導した。
川喜田二郎編著『移動大学』(鹿島研究所出版会)が刊行される。
川喜田二郎編著『雲と水と ―移動大学奮戦記』(講談社)が刊行される。 |
1972年 |
「参画協会」の発起人会が開催される。
第10回移動大学「青森移動大学」(青森県岩木山麓)が開催される。 |
1973年 |
「KJ法上級コース」が始まる。
第11回移動大学「新潟移動大学」(新潟県角田浜海岸)が開催される。
川喜田二郎著『野外科学の方法』(中央公論社・中公新書)が刊行される。
「KJ法上級コース研究班」が発足する。 |
1974年 |
第12回移動大学「多摩移動大学」(東京都秋川市)が開催される。
第13回移動大学「大山移動大学」(鳥取県大山町)が開催される。
川喜田二郎著『海外協力の哲学』(中央公論社・中公新書)が刊行される。
川喜田二郎著 "The Hill Magars and Their Neighbours"(Tokai University Press)が刊行される。
「KJ法基礎実技教育者コース」が始まる。
「ヒマラヤ技術協力会」が設立され、川喜田二郎は代表理事に就任する。シーカ河谷数ヶ村へ技術協力を開始する。 |
1975年 |
研修カリキュラムに「方針ラウンド」が加わる。
「KJ法入門コース」が始まる。
研修カリキュラムに「パルス討論」が加わる。
番号外の「大山移動大学」が開催される。
『KJ法清流作り』(川喜田研究所)が刊行される。 |
1976年 |
「KJ友の会」が発足する。
取材ノート「KJ手帳」を開発し、発売を開始する。
「取材学コース(タッチネッティングコース)」が始まる。
第14回移動大学「能登移動大学」(石川県穴水町)が開催される。
KJ友の会会報『積乱雲』が発刊される。
第1回「KJ法経験交流会」が開催される。 |
1977年 |
第1回「KJ法学会」が開催される。
第15回移動大学「富士移動大学」(静岡県富士山麓)が開催される。
川喜田二郎著『ひろばの創造』(中央公論社・中公新書)が刊行される。
川喜田二郎著『知の探検学』(講談社・現代新書)が刊行される。
「KJ法東京ミニ広場」が始まる。 |
1978年 |
川喜田二郎、筑波大学歴史人類学系教授に就任する。あわせて新設の大学院環境科学研究科教授を併任する。
指導者の要請を基本にし、新研修システムに移行する。
KJ法学会年報『KJ法研究』(川喜田研究所)が創刊される。
川喜田二郎、「秩父宮記念学術賞」を受賞する。
川喜田二郎、ネパール国の「ゴルカ・ダクシン・バフ三等勲章」を受章する。 |
1979年 |
「KJ法」その他一連の名称が登録商標となる。
「KJ法入門登録制度」が発足する。
1970年に「KJ基礎実技研修会」としてスタートした標準講座が100回を迎える。
川喜田研究所公認「KJ法塾」の開設が始まる。 |
1981年 |
「KJ法横浜ミニ広場」が発足する。
朝日カルチャーセンター・横浜で「KJ法入門講座」が始まる。
『KJ法本流づくりへの道』(川喜田研究所)が発刊される。 |
1982年 |
「KJ法学校法人設立準備委員会発起総会」が開催される。
KJ法研修会でケーススタディー方式が始まる。 |
1983年 |
「KJラベル」「KJ手帳」の規格を拡張する。
“THE ORIGINAL KJ METHOD”(英語版KJ法紹介小冊子)、同エスペラント語版が刊行される。
「会議法コース」が始まる。 |
1984年 |
川喜田二郎編監修『KJ法実践叢書』(1)(2)(プレジデント社)が刊行される。
川喜田二郎、筑波大学を退官する。
川喜田二郎、「日本ネパール協会」会長に就任する。
「テーマ追求コース」(7コース)が開催される。
「KJ法日報シート」を開発し、販売を開始する。
川喜田二郎、KJ法の功績により日本能率協会から「経営技術開発賞」を受賞する。
川喜田二郎、フィリピンの「マグサイサイ賞」を受賞する。 |
1985年 |
川喜田二郎、中部大学国際関係学部教授に就任する。
川喜田二郎編監修『KJ法実践叢書』(3)(4)(プレジデント社)が刊行される。
『KJ法実践叢書』出版記念兼第9回「KJ法経験交流会」が開催される。 |
1986年 |
「KJ法学会」10周年記念大会が開催される。
ネパール国が要請した環境保全のためのキング・マヘンドラ財団に協力するため、ヒマラヤ技術協力会を「ヒマラヤ保全協会」として解体再編成する。
川喜田二郎著『KJ法―渾沌をして語らしめる』(中央公論社)(KJ法を集大成した原典)が刊行される。 |
1987年 |
川喜田二郎著『素朴と文明』(講談社)が刊行される。
川喜田二郎、ネパール国の「ビキャット・トリシャクティ・パッタ三等勲章」を受賞する。
川喜田二郎著『野外科学運動への提言』(川喜田研究所)が刊行される。
『KJ法学園(仮称)の創設―問題解決から構想計画まで―』(KJ法学園設立準備委員会)が刊行される。 |
1988年 |
川喜田二郎著『ヒマラヤ・チベット・日本』(白水社)が刊行される。 |
1989年 |
表札づくりの新手法「核融合法」が川喜田二郎により開発される。
第16回移動大学「丹後移動大学」(京都府網野町)が開催される。(移動大学発足20周年) |
1990年 |
第14回「KJ法学会」(開催地、岐阜県大垣市)が開催される。(初めて東京を離れ地方での開催。) |
1991年 |
川喜田二郎、中部大学を退官し、KJ法本部・川喜田研究所理事長に就任する。KJ法の本流づくりと、ネパール・ヒマラヤの環境保全・国際協力の2点をライフワークとする。
KJ法本部・川喜田研究所が、東京都目黒区下目黒から目黒区碑文谷6-14-6に新築移転する。新施設は、1階は研修兼交流の場として、2階の半分は事務室として使用できる。
取材のための新手法「点メモ花火」が川喜田二郎により開発される。 |
1992年 |
初代会長大来佐武郎氏の逝去にともない、川喜田二郎、「ヒマラヤ保全協会」会長に就任する。
新本部の披露を兼ね、第16回「KJ法経験交流会」が行われる。 |
1993年 |
川喜田二郎著『創造と伝統』(祥伝社)が刊行される。
川喜田二郎、「大同生命地域研究賞」を受賞する。
川喜田二郎、「福岡アジア文化賞」を受賞する。 |
1994年 |
京都下鴨に「KJ法関西研修所」が完成し、関西および西日本方面の研修・交流に利用できるようになる。
川喜田二郎、「勲三等瑞宝章」を受章する。 |
1995年 |
KJ法1ラウンドの作業にパソコンが活用されるようになる。『積乱雲』『KJ法研究』のDTPが始まる。
「KJ友の会」の会員間で電子メールによる通信が本格化する。
KJ法を中核とした「住民の声による地域診断システム」の実施が始まる。「信濃川地域連携軸構想業務」が実施される。
川喜田二郎著『野性の復興』(祥伝社)が刊行される。
『川喜田二郎著作集』(中央公論社)の刊行が始まる。 |
1996年 |
口頭発表の新手法「闊達話法」が川喜田二郎により開発される。
「KJ友の会」が発足20周年を迎える。第20回記念「KJ法経験交流会」が開催される。
第20回記念「KJ法学会」(テーマ:電脳時代の海図を求めて)が盛大に開催される。電子版KJ法(KJ法サポートソフトウェア)開発の具体的な見通しが明らかになる。電子版移動大学の展開が構想される。
「KJ法日常情報活用コース」「6ラウンドKJ法後期コース」が始まる。
山形県鶴岡市において「住民の声による地域診断システム」が実施される。 |
1997年 |
秋田県矢島町において「住民の声による地域診断システム」が実施される。
「KJ法最高研究会」が発足する。
第17回移動大学「鳥海山移動大学」の実行委員会が発足する。 |