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思索の旅 第15号
東京国立博物館

> 東京国立博物館(東京・上野)

目 次
15-1 作品を時代の中でとらえる -東京国立博物のリニューアル展示-
15-2 信玄と信長のあいだには歴史の「断層」がある
15-3 情報処理の基本は空間を利用することである
15-4 ある組織や仕組みがほろんでいくときには「複雑化」がおこる
15-5 自発性と切実感をのりこえたところからあたらしい学問が生まれる
15-6 地球観測とフィールドワークとは相互補完の関係にある
15-7 情報処理の3つの場面を意識する
15-8 環境問題は心の問題である
15-9 イメージと言葉が共鳴すると感動が増幅する
15-10 現場に行く意味をふかく意識する時代になった
15-11 宇宙観は心の情報処理により構築される

15-1 作品を時代の中でとらえる -東京国立博物のリニューアル展示-

 2004年9月、東京国立博物館の常設展示室が全面リニューアルされた。2階展示室は「日本美術の流れ」として、縄文時代から江戸時代までの国宝や重要文化財などを時代にそって順番にみられるようになっている。
 普通、博物館の展示では、それぞれの作品(展示物)がポツンと展示されていて、作品が本来おかれていた全体的な状況がつかみにくいことが多い。
 しかし、それぞれの作品は、その作品だけがポツンと存在していたのではなく、集落であるとか寺社であるとか、ある状況の中に存在してこそ意味をなす。それがどのようなところから出土したのか、あるいはどのような建物におかれていたのかなど、全体状況を認識することは非常に重要なことである。発掘現場や寺社などの「現場」にいけば、全体的な状況のなかに位置づけてそれぞれの作品をとらえることができる。
 ところが、今回のリニューアル展示をみると、それぞれの作品が、それがつかわれた「時代」の中に明確に位置づけられている。大きな時代の流れをみると、それぞれの作品がそれぞれの時代の中でもたしかに意味をもっていることがわかる。さらに一歩ふみこめば、「時代」と「作品」とのあいだにつくりだされた人々の「文化」についても想像することができる。
 発掘現場や寺社など「現場」の中で作品をとらえるのは作品の「空間的な位置づけ」であるのに対し、この博物館で作品をとらえるのは、作品の「歴史的時間的な位置づけ」と言ってもよいだろう。
 東京国立博物館の今回のリニューアル展示は、歴史的な位置づけあるいは時間的な意味を明快に、しかもそれを効率的におしえてくれる。ここに、この博物館を利用する大きな価値のひとつがある。

15-2 信玄と信長のあいだには歴史の「断層」がある

 「武田信玄は中世最後の巨人であるのに対し、織田信長はあたらしい近代をきりひらいた人物である」(「武田信玄 地を拓き水を治める」そのとき歴史が動いた、NHK)。
 武田信玄は豪族をとりまとめるとともに、治水や金山開発をおこない国造り・領土経営をうまくやった。のちに「甲州流」として江戸時代に全国にひろく普及することになる「信玄堤」とよばれるすぐれた治水の技術も開発した。それに対して、織田信長は豪族にとらわれずに、また先祖伝来の領土にもとらわれずにまったくあたらしい手法でのりだしてきた。その信長を信玄はたおすことはできなかったという。
 戦国時代をひとかたまりでみるのではなく、武田信玄と織田信長とのあいだに大きな「断層」をみることが重要である。時代がうごくときは一気にうごく。まったくあたらしい発想によってふるい時代は急激におわりをつげる。
 時代が大きく変革しようとしている今日、信玄と信長との相違に注目することには大きな意味がある。

15-3 情報処理の基本は空間を利用することである

 かつて、(紙の)カードをつかって情報処理をおこなう人々がいた。カードをつかうと情報を前後させたり、机のうえにひろげて上下左右に移動させたりすることができる。
 パソコンが普及した今日、カードはほとんどつかわれなくなったが、たとえばワープロをつかえば、言葉(情報)を前後させたり、上下左右をいれかえたり、言葉の挿入・削除・移動が自由にできる。ワープロと原稿用紙とはまったくちがう。ワープロは情報処理の道具である。
 このように、カードとパソコンとは似たような役割を果たしている。この奥にある本質は一体何だろうか?
 それは、情報処理の基本は「空間」を利用するということである。言語は、最終的には前から後ろへ時間的に流れるものとなる。しかしその処理過程では前から後への流れにとらわれず、空間を自由に移動させることが必要である。つまり、情報処理では空間を利用している。このことに気がつくと情報処理は一気に加速され、情報処理能力を開発する道がひらかれる。
 かつてカードをつかっていた人々は、高度情報化がはじまる前にそのことに気がつき、当時の道具であった「紙」をつかってそれを実現しようと努力していたのである。

15-4 ある組織や仕組みがほろんでいくときには「複雑化」がおこる

 組織や仕組みがほろんでいくときには「複雑化」という現象がおこる。たとえば会社などで部署や課が急にふえたりする。あるいは何らかのトレーニングコースのコースの種類が急にふえたりする。これはどうしてだろうか。
 そのもっとも大きな原因は時代の変化だろう。時代が大きく変化してくると従来の組織や仕組みではうまくやっていけなくなる。そこでなんとかうまくやっていこうとして工夫して、既存の体系(基本的枠組み)をのこしながらも、必死になって修正をこころみる。つまり時代の変化に適応しようとする。このとき複雑化がおこってしまうのである。
 しかし時代の方は、想像もつかない速さでどんどん変化してしまう。修正をくわだてた人々の努力は もがきくるしみにおわる。つまり適応しきれないのである。
 そして別のところからまったくあたらしい発想で、あたらしい枠組みがあらわれてくる。その枠組みはきわめてシンプルでわかりやすい。まさに現代はこのようなことがおこっている時代の転換期である。

15-5 自発性と切実感をのりこえたところからあたらしい学問が生まれる

 「知的好奇心こそが学問の源である。何か目的をもってやるのではない。学問それ自体が目的なのだ」という主張がある。学問のための学問といったかんがえ方である。
 しかし一方で、「役にたつ学問をやれ」という主張もある。
 東北大学の元総長・西沢潤一氏は「役にたつことをやれ。役にたつことをやっている中から、今までになかったあたらしい学問がでてくる」とかたった。
 テーマをきめて、興味のおもむくまま自由に学問にとりくむ姿勢には自発性がある。他方、実際に役にたつことを必要にせまられて必死になってやる姿勢には切実感がある。これら2つのことなる学問の姿勢、この矛盾はどう解決したらよいのだろうか?
 西沢潤一氏のことばに「あたらしい学問がでてくる」というところがあった。わたしはここ注目した。最初の段階では自発性にもとづいて自由に学問おこない、第2の段階ではそれを社会に役立てることを目標にする。ただし、その先にあるあたらしい展開を期待する。
 そのようななかから、第3段階目に、第1段階と第2段階をのりこえたあたらしい学問、自発性や切実感をこえた本質的な学問がうまれるのだろう。現代は第3段階目の学問が待望されている時代である。

15-6 地球観測とフィールドワークとは相互補完の関係にある

 人工衛星や宇宙船が発達して、宇宙から地球を観測できるようになった今日、地球に関するデータは急激に増えた。地球を知る上で、その観測データをつかわないという手はない。そのデータはつかわなければならない。
 たとえば地図をつくるとき、従来のように地表をノコノコあるきながら測量をつみかさねるという方法はもはや過去のものになった。地球観測衛星からのデータをつかって精密な地図がつくれる。いつまでもふるい方法にとらわれていてはいけない。
 しかし一方で、課題によっては地表をあるく従来の方法が必要な場面もある。たとえば、まちづくりとか、生態系保全などの具体的な仕事をすすめる場合がそうである。その場合にはフィールドワークをおこない、現場の縮尺にあった地図づくりや、現地の人々がもっている膨大な情報を処理・統合するといった作業が必要である。
 こうして、地球観測とフィールドワーク、あたらしい方法とふるい方法とは役割を分担して相互に補完する関係になる。ふるい方法はあたらしい時代に遭遇してあらたな意味をもってくる。

15-7 情報処理の3つの場面を意識する

 NHK教育テレビに「しらべて まとめて 伝えよう -メディア入門-」という小学生向けの番組がある。
 現代的ないいかたをすれば、しらべるとは心の中への情報の「入力」であり、まとめるとは心の中での情報の「処理」であり、伝えるとは心の中からの情報の「出力」のことである。このような情報処理の全プロセスをいいかえると「しらべて まとめて 伝えよう」ということになる。
 情報処理の仕組みがよくわからなくても、このような「3つの場面」はよく意識した方がよい。意識するだけでかなりの効果があがってくる。
 なお番組では、調べるときには、(1)もう一度よくみる、(2)知っている人にきいてみる、(3)本をしらべる、という注意がされていた。しかし、まとめることと伝えることには関してはあまり有益な指導がなされていなかった。

15-8 環境問題は心の問題である

 ウェブサイト「goo(グー)」には「goo環境」があり、今日の環境技術の発展とその効果について知ることができる。
 自然環境をゆたかにすると、心がいやされ心がゆたかになる。精神文化の創造が待望される現代だからこそ環境問題が台頭してきた、あるいは自然思想が復活してきたという側面がある。環境問題とは実は心の問題である。
 文化の成長は、物質文化から精神文化へとシフトするものである。今日、自然と社会とを調和させる技術の開発が急ピッチですすんでいるが、いずれはライフスタイルの変更やあたらしい価値観の確立といったことに重心がうつってくる。このようなことを展望にいれて環境問題にとりくまなければならない。

15-9 イメージと言葉が共鳴すると感動が増幅する

「伸身の新月面宙返りがえがく放物線は、栄光への架け橋だ! 決まった!」
 NHKの刈屋富士雄アナウンサーの実況が金メダルを確信させる。
 アテネ・オリンピック体操男子団体の日本チームの最終演技に感動した人は多いとおもう。映像もさることながら実況がすばらしかった。映像(イメージ)と言葉とがみごとにかみあい感動を大きく増幅させた。イメージと言葉が共鳴すると、より大きな世界がつくりだされることのよい例である。
 この放映を見て、見たことを瞬時に言葉にかえていく実況のすごさと、よくできた言葉にイメージを変換するためには、かなり高度な能力が必要であることを再確認した。
 後日、刈屋アナウンサーは「言葉のアスリート(運動選手)になれた」(朝日新聞)とかたったという。

15-10 現場に行く意味をふかく意識する時代になった

 情報環境が整備されてライフスタイルが変革しつつある今日、かならずしも現場にいかなくても用がたりるようになってきた。しかし、これは現場にいく必要がなくなったのではない。現場に何をしに行くかを明確にすることが必要な時代になったのであり、現場に行く意味をよりふかく意識する時代になったのである。

15-11 宇宙観は心の情報処理により構築される

 宇宙をイメージし想像するということは、心の世界をひろげることになる。ただし、宇宙のイメージや想像は、勝手気ままにおこなうのではなく、感じたことにもとづいておこなう。
 現代科学がえがきだす宇宙観は、科学者が感じたことにもとづいて、科学者が心の中にえがいたイメージであり、また想像したことである。現代的にいえば、感じるとは観測することであり、感じたこととはデータあるいは情報のことであり、イメージをえがいたり想像するとは情報を処理することである。
 宇宙観を構築するということは、心の中で情報を処理し、心の中に宇宙を構築することであると言ってもよい。また、宇宙観にとりくむということは、みずからの情報処理の空間をひろげることになる。
 仏教の宇宙観も、ヒンドゥー教の宇宙観も、現代科学の宇宙観もこのような観点からとらえなおしてみると大変おもしろい。すべてが有用であり、時代をこえて意味をもちつづけている。

参考文献:定方晟著『須弥山と極楽 -仏教の宇宙観-』(講談社現代新書、1973年)
(2004年9月)

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2005年4月5日発行
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